池田 武邦 先生
2008年 02月 22日
2月18日、NHKハイビジョンで放送のあった、
日本の風景を変えた男たち▽廃墟から超高層そして~池田武邦の戦後
の放送がありました。録画しておいた物を昨日見ました。
いや、、、、感激しました。本当に涙(T_T)でしたね。。。。
前からテレビの放送、感じていたのですが、ナレーションや説明で???のところもあったのですが、それはそれとして素晴らしい話でした。池田武邦先生は、日本設計事務所の創設者の一人です。
以前にも書きましたが、ハウステンボスの誕生には池田先生はなくてはならない方です。今も時々園内でお見かけします。一度はアドミでお食事をご一緒させていただきました。(*^。^*)
あ、隣のテーブルで食べておられたただけです。奥様とご一緒でした。よっぽど、声をおかけしようかと思ったのですが、あちらもプライベートの時間を楽しんでおられるので、それは遠慮しました。
テレビではハウステンボスとのかかわりを映像にしておられましたし、説明もそのような説明でした。ですが、実は、ハウステンボスの前の、長崎オランダ村からかかわっておられます。
前ハウステンボス社長 神近さんの著書から見ますと
【不思議なオジサンとの出会い】
話はかなり翻るが、昭和47年のある日曜日のこと、私が自宅でテレビを見ていると、玄関の方で声がする。出てみると、4,5人の見慣れない顔が並んでいた。知人に紹介されたといって、田舎のオジサンみたいな人が名刺を差し出した。名刺には"日本設計事務所 副社長 池田武邦"と書いてある。本人はもちろん、日本設計なる会社も私は知らない。同社が京王プラザホテル、新宿三井ビル、工業技術院筑波研究センターなどを手がけるほどの、一流の設計事務所であることなど、その時はぜんぜん知らなかった。
と、その出会いを紹介しています。長崎オランダ村のオープンが昭和58年7月22日ですから、それよりずいぶん前に神近氏と池田先生は出会っています。
さらに、池田先生の事を
オジサンは年に三,四回長崎へやって来る。麻雀は好きだが、下手で遅い。その上、ルールを守らない。変な長崎弁を使い、泳ぐのはうまいがすべてにブキッチョである。でも、なぜか人望がある。周囲に顔つきのよくない男たちが集まる。みな、豪傑たちである。彼らは人の言う事など聞かないのに、不思議なことにオジサンの言うことだけは聞く。池田先生が白を黒と言うと、声を揃えて黒と言う。
と紹介しています。テレビでお話をされている姿を拝見して本当に素晴らしい方だと思いました。人をひきつける何かがあるんですね。若い頃海軍士官として軽巡洋艦”矢矧”に乗り込んで、太平洋戦争に従軍、レイテ沖海戦の後、沖縄特攻作戦に参加し、"矢矧"はそこで沈没(片道の燃料しか積んでいなかったそうです)、漂流のあと奇跡的に助かったものの、戦友の6割が帰らぬ人になってしまったとの事。ずっとおっしゃっておられたのは
私は生かされている。あの戦争で死んでも全く不思議ではなかったし、自分も生きるつもりなど全くなかった。たくさんのなくなった方を水葬にしたりしていたら生と死は本当に紙一重だと思った。あの戦争で生き残ったのだから、焼け野原の日本のために何か自分を役立てたい
って。。
それで、東京帝国大学(これって東大ですよね。。何のかんの言ってすぐに東大に入れるのがすごいけど。。)に入って設計の勉強をして、日本で初めての超高層ビル、霞ヶ関ビルを設計されました。以後も、いろんな超高層ビルを設計され、ご自身も自分で設計された新宿三井ビルの50階で仕事をされていたある日。仕事を終えて1階に下りて外に出たとたん、外は雪だったそうです。仕事をされていたのは高層ビルの50階で、雲の中なので雪は降らないし、寒さも全くわからない。でも、外に出て、すごく寒い中を雪が降っており、冷たい雪が顔に当たった瞬間に本当に気持ちがやすらいだって。
自分が今まで日本のためと思って一生懸命にしてきた事はいったいなんだったんだろう。
と大きな疑問を感じたそうです。高層ビルの窓ははめ殺しになっていて開きません。空調は常に人にとって一番いい湿度と温度にコントロールされており、風も吹かず、とってもいい環境のはずなのに、知らず知らずのうちにとってもストレスがたまり、風を感じる事、暑さ寒さを感じる事が人間にとっていかに大切な事かに気づいたそうです。
そんなこともあって、神近さんと一緒に二人三脚で長崎オランダ村、そしてハウステンボスのプロジェクトを進められました。ただし、ハウステンボス株式会社と言うのはもともとそんなにお金がたくさんあったわけではないので設計料はお布施程度だったそうです。
そのため、日本設計の設計技師の方とはいろいろとあったと書いておられます。
テレビの放送の中で、池田先生の大きな功績の一つに、それまでは建物の設計と言うのは一人の設計士の方が設計をされ、それに併せて、下の方が図面を起こしていくと言うのが一般的な方法だったのを、霞ヶ関のビルを設計する時には、空調、電気、水回りなどそれぞれの専門家の方を集めてみんなで話し合いながら図面を起こしていったと言う話がありました。
ハウステンボスでは15人委員会というアドバイザー組織をまず立ち上げています。座長はもちろん、池田先生です。この委員会は、ハウステンボスを街として千年の間成長させるため、専門的にプロジェクトを検討する場でした。ハード委員会はオランダ人4人を含む10人。運河・花畑などのランドスケープの専門家、タウンスケープの専門家、橋梁・水門などの専門家、庭園・道路の専門家。ソフト委員会の方は、斎藤茂太さんを始め5人の方たちで構成されました。
そこかしこに、日本有数の設計士としての池田先生の考えがちりばめられたハウステンボス。循環型都市をめざしたハウステンボスは、NHKのこの番組でも高い評価を受けていました。
(もっとも、NHKグループは、ハウステンボス計画に参画していたのですが。。)
現在、池田先生は長崎県西海市の岬の先っぽの茅葺のお家【邦久庵】に住んでおられます。私には、あれだけ高層建築の設計をしておられた方がなぜ??と言う想いもありますが、
こういう家がとても住みやすくて落ち着く。
所詮、人間は神様には勝てません。。
とおっしゃっておられました。
確かに、素晴らしい家ですが、池田先生でないととても建てられないような日本建築です。一般の人は建てようと思っても、建てるだけの大工さんを集める事はできないんじゃないかな。。。
日本の最新鋭の建築の設計をされた方だけに一つ一つの言葉は重かったです。いろいろと経験して結局ここに戻ってきました。。と
ハウステンボスって素晴らしい。
と改めて思いました。池田先生、どうか、いつまでもお元気で、ハウステンボスの発展を見守ってくださいね。